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追憶の北京 アーカイブ

2006年09月30日

何も言えなくて、、、

バイクばっかり乗っていて、ロクに学校にも行ってなかったので大学には行けませんでした。 ファッションの専門学校に行って、デザイナーになって一発当ててお金持ち〜という夢を描いてたけど、現実は難しいなと。 どこに就職するなか〜と悩んで手に取ったのはスポーツ新聞、求人欄の三行広告を眺めていました。 あんまり頭が良くないので、"誰にでもできる簡単な仕事"しかできません。 経験不問で高級優遇のところでしか働く意思はないので、普通の人材募集では適当な会社は見つかりません。 そんな世の中を舐めた僕が就職したのは、自宅の近所に有る衣料品の卸問屋でした。 仕事の内容は荷物運びがメイン、衣料品のもとになる生地とかを担いで運ぶ仕事でした。 体力が有り余ってた僕には適当な仕事で、初日からバリバリと荷物を運んでました。 そんな仕事をしてると、就職三日目に社長に呼び出されました。 当時の僕は身長174cmで体重95kg、どこから見ても健康そのものでした。 社長から一言、"北京行かない?"と言われました。 北京・・・?社会科が苦手だった僕は瞬時にそれが中華人民共和国の首都だとは思い浮かびませんでした。 なんか歴史の授業で、北京原人が出たところ?ぐらいの勉強をしたぐらいしか印象がなく、"はぁ?"という返事しか出来ませんでした。 目の前にいる社長は、そこに行って仕事しない?とかって言ってます。 "中華人民共和国に行って仕事をする"、こんなことは、想像もしてなかったことなので、即答できずに困っていると、"給料倍出す!"と言われました。 初任給250万円×2=年収500万円=シーマじゃん!みたいな図式が頭の中を流れ、"行きます!"と即答。。。 中国の北京に行って一年働くとシーマが買える、これはとっても魅力的でしたねー。 まぁ、言葉はニーハオしか知りませんでしたが、社内にも中国語が話せる人はいないそうです。 とりあえず実験台なんだろーってことで、危険手当代わりに年収500万円で受けました。 翌日には旅行代理店に渡中の相談です、当時は簡単にビザも発給されなかったので、資格の調査とかなんとかで時間が掛かりました。 4月1日に就職して3日には北京行き決定、初めて中国の地を踏んだのは5月ゴールデンウィークのことでした。 感想は一言、"ヤバイところ来ちゃったな"でした。 はまった男の恋物語に刺激を受けて、自分の北京ストーリーを書いてみようと思いました。 慣れてないので、読み難い部分もあると思いますが、宜しくお願いします。 国慶節も通常営業!女の子もいつも通りに出勤しています。

2006年10月01日

BJ2020

1987年5月、初めて中国の大地を踏みました。 感想は一言"くさーい"だけでした。 韓国は"キムチ"の匂いがするとかしないとか? 北京空港の匂いを例えて言うなら、ニンニクとほこりの混じったような匂いがしました。 なんとも言えない不快感を覚える香り、正直イヤだなーと思いました。 出迎えの車に乗って北京市内に入らずに横に動くこと6時間、万里の長城のふもとに位置する勤務地にたどり着きました。 いまでこそ北京市内から1時間程度で到着する万里の長城ですが、当時は高速道路が整備されておらず、市内からでも3時間はかかる場所でした。 空港からは山の中のケモノ道をひた走って到着するという、未開っぽい土地です。 乗っているのはBJ2020という中国産のジープで、これがまたボロイ。 今はマニアに人気の有る車ですが、それもそのはずほとんど走っていません。 工場までの6時間、僕の頭にはインディージョーンズのテーマ曲"ちゃ〜ららっちゃ〜ちゃ〜らら〜ちゃ〜ららっちゃ〜ちゃ〜らら〜"がずっと流れていました。 僕の仕事は何かの発掘ですか?と自分の仕事を再確認したくなりました。 何度も止まるBJ2020、ボディーはギコギコいってます。 予定では明日は北京市内を視察して、北京生活に自分自身が耐えられるかどうかを確認することになっていますが、この車、明日動くんだろうか?という疑問ばかりが頭を駆け巡ります。 日が落ちかけた頃にようやく工場がある集落に到着しました。 この場所は、当時はまだ北京市の仲間入りをしておらず、地方の県という扱いでした。 県といっても何もない場所、地方都市という形すらなしていません。 レンガの家が立ち並んでいますが、民家というより納屋か倉庫のような感じです。 絵本に出てきた三匹のこぶたの家の方が、よっぽど民家っぽいです。 そんなレンガの家が立ち並ぶ集落の中心に、二階建ての真っ白な工場が立っていました。 周囲がレンガ一色なので、白い建物というのは新鮮です。 これを見てちょっと安心、自分の仕事場に自信がもてました。 しかし、空港→工場までが6時間、工場→北京市内が3時間、距離云々は別にしてこの3時間は通勤距離と考えるのは間違いっぽいです。 まぁ、年収シーマなのでこれぐらいの我慢はしなくてはなりません。 荷物の整理もそこそこに歓迎の食事会に出席しました。 国慶節も通常営業!女の子もいつも通りに出勤しています。

2006年10月02日

インコの餌ですか?

会議室の横に設けられた接待用の部屋に通されて宴会です。 照明は白熱灯が一個、それも10Wぐらいの暗ーい電球でした。 こんな暗さで食事をするのは、闇鍋ぐらいしか経験がありません。 円卓には10皿ぐらいの料理が並べられ、如何にも中華料理という雰囲気を醸し出しています。 ショットグラスに臭い酒を注がれ、飲め飲めと乾杯が始まりました。 中国の白酒と呼ばれる酒は、日本人には刺激が強過ぎるぐらいに臭いです。 これを常に飲んでいる中国のオヤジは、口臭・体臭ともにこの臭いがします。 グイっと飲んでガハァーと息を吐くと、息に色が着いているんじゃないかと思えるぐらい臭いにおいがします。 そんな臭い酒を煽りながら、食事をしていきました。 円卓に並べられた皿には様々な料理が並び、現地の人が食え食えと僕のお皿に取り寄せてくれました。 色んな料理が集まってきたかと思いきや、よく見ると食材は2種類だけです。 丸く切ったり四角く切ったり、千切りにしたりと工夫していますが、白菜とジャガイモしかありません。 はぁ?と思って円卓の上を見ると、ほんとに白菜とジャガイモ料理しかありませんでした。 当時の中国では、まだ食料は豊富ではなく、多種多様な食材を食べられる状況にはなっていませんでした。 普通、外国人が来るとなればヤギの一匹でも殺すらしいですが、僕の前の円卓にヤギがいなかった事を考えると、重要な来賓として扱われていなかったような気がします。 このヤギも殺して貰えない立場というのは、後々問題になってくるのでした。 白菜とジャガイモ、それにホットケーキのようなモノとおかゆのようなモノ、これが初の本場中国の味となったわけでした。 この初日に食べたホットケーキのようなモノというのが、これからの主食になるとは思いもよりませんでした。 これはトウモロコシで作ったパンで、見た目はいいのですがノド越しは最悪、なかなか飲み込めないというシロモノでした。 空腹を紛らわすにはこのパンと水、これに限りました。 おかゆのようなモノの正体は、ヒエとかアワっていうんでしょうか? 日本の自宅で飼ってたインコが食べてたツブツブした穀物に似ています。 それをお湯でもどしたような感じの食べ物だったので、インコではない僕には食べることはできませんでした。 一口だけ食え食えと言われて食べましたが、口の中に広がる妙なツブツブ感が気持ち悪く、口の中がジンマシンにでもなりそうな気がしました。 こいつもトウモロコシパンと並び、今後の主食になるとは思いもしませんでした。 なんだかよくわからないモノを食べさせられて、白酒で泥酔した中国初夜となりました。 国慶節も通常営業!女の子もいつも通りに出勤しています。

2006年10月04日

お前ら見えるのか!?

泥酔して工場の食堂から部屋に戻る帰路に着きました。 工場のオジサンが僕を連れて宿舎へ向かうのですが、周囲は"闇"で真っ暗でなにも見えません。 闇の中を手探りという感じで進むのですが、その自分の手すらも見えません。 まったくの闇、ここまでの暗さは日本で体験した事がありませんでした。 その中を歩いていく工場のオジサン、普段から暗い場所に慣れているとはいえ、"夜目が効く"とかいうレベルの話じゃありません。 足を一歩ずつ進めるのがギリギリの状態だというのに、後ろから自転車のベルが鳴ってます。 どうやら、手探りでオタオタしてる僕に向かって鳴らしてるらしいのですが、どっちに避けたら良いかもわかりせん。 背後から迫ってくる自転車の影も形も見えないので、対処のしようがないのです。 僕の横をザーッと走り抜けていく自転車、まるで銀河鉄道999の幽霊列車のような感じです。 この闇の中で自転車に乗れる中国人、身体能力の違いを感じさせられた瞬間でした。 部屋に戻って寝ることにしました。 顔でも洗ってーと思い洗面台に向かったのですが、蛇口をひねると出てくるのは茶色い水。 この水を口に入れて歯を磨いても綺麗になりそうにもありません。 いつもこんな水で歯磨きしてるからこっちの人は歯が黄色いのかなーと思いました。 あとから聞いた話では、中国では歯磨きをしない人が人口の60%を超えるとか? あの毛沢東も指に塩をつけてすすぐだけだったといいます。 黄色い歯というのも仕方ないのかもしれません。 いろいろな生活習慣の違いを感じた北京初日、シーマ獲得まであと364日となりました。 国慶節も通常営業!女の子もいつも通りに出勤しています。

2006年10月06日

金縛りの夜

工場から与えられた部屋に戻って寝るのですが、この環境というのがまた最悪。 なんかの箱を組み合わせて作ったようなベットで、まったくクッションがなくとても硬いです。 日本でいうせんべいふとんとでもいうのでしょうか? ふかふかベットに慣れた僕には床で寝ているように感じました。 寝苦しいなーと思って寝ていると、急に全身が動かなくなってしまいました。 俗に言う金縛りというやつでしょうか? 初体験だったのでちょっとパニくってしまいました。 ジタバタしようとしてもまったく体が動かず、声も出ない。 目を開くこともできずに棒のように固まってしまいました。 ここってお墓の跡地だったりするのか?と考えたりしてるうちに、なんかの気配を感じました。 マジですか???これには本気でビビリました。 初北京でお化けに遭遇かよーと焦りまくりました。 気配はドアから部屋の中をウロウロして僕の寝ているベットの方に近づいてきます。 正体を確認しようと思うのに、目が開かない。 逃げようと思うけど、体が動かない。 声も出せない状態で、その気配は僕の寝ている横まで近寄ってきたように思いました。 怖い!怖い!怖い!。。。。本当に怖かったです。 しばらくしてその気配は去っていきました。 それと同時に僕の金縛りも解けました。 相当にヤバイ!超常体験は初めてで、それも異国の地、おまけに山の中、逃げ場所なし、言葉しゃべれない! 様々な悪条件が一気に頭の中を駆け巡りました。 しかし、ちょっとパニックになったものの、しばらくすると酔いのために寝てしまいました。 さて、朝起きると北京に行くかどうかを考えます。 工場長は北京行きの段取りを整えてくれているのですが、北京まではガラクタBJ2020で3時間も掛かります。 集落ではなくて街並みを見てみたい気もしたのですが、そこに住めるわけでもないので、ヨダレが出そうな環境はあえて見ないことにしました。 それよりも自分がこれから働く仕事場の方が気になります。 1,000台近いミシン、様々な縫製のための機器のチェックをするために縫製現場に向かいました。 現場は縫製という仕事柄、ほとんどが女性で占められています。 班長クラスの人数人を除き、大部分は若い女の子なのですが、なぜか興味がわきません。 日本人よりも色が黒く、どこかインディアンのようにも見えます。 うーんと考えること数分、コロンブス達はよくやったなーと感心してしまいました。 僕はコロンブスにはなれないだろうなーと感じた中国女性初対面の感想でした。 縫製設備ほう方はというと、、、まったくお話にならないような状態で、一から全ての機器を調整しないときちんとした製品は作れそうにもありませんでした。 国慶節も通常営業!女の子もいつも通りに出勤しています。

2006年10月07日

空腹との戦い

工場の食事は相変わらず白米がでてきません。 やっぱり白米がないと食事をした気になりません。 出てくるのはいつもインコの餌のような丸い系の穀物類ばかりです。 食べても食べても空腹感を癒すことができなく、まるで減量中のボクサーのようです。 水を飲もうとしても、水道の水は飲めません。 一度沸騰させてからしか飲料水として使えないので、飲みたいときにガブガブ飲むという事が出来ないのには参りました。 ジュースあるよーと出されたオレンジジュースは、子供の頃に飲んだプラッシーとは比較できない不味さです。 お米屋さんが持ってきてくれたプラッシー、お金持ちの家はキリンレモンだったようですが、僕はプラッシーが好きでした。 そのプラッシーとは比べられない不味さのオレンジジュース、色はオレンジジュースなのですが、思いっきり人工的な味がします。 妙な甘さ、これはサッカリンの甘さでしょう。 原料的にも相当にヤバイモノが多く入っているようで、スプーンにすくってライターであぶったら、蒸発したあとにオレンジ色の着色料が残りました。 こんなの飲んでたら顔がオレンジ色になっちゃいますよ。 ヤバ過ぎる食生活環境のもと、主食と飲料水の確保が最重要課題となりました。 現地の中国人は普通に飲み食いしていますが、日本からやってきた僕には耐えられません。 日持ちする主食として、トウモロコシで作ったイガイガパンを選びました。 食感は悪くても日持ちはしますし、何より見た目が良いです。 ホットケーキだと自分に言い聞かせれば、なんとか耐えていけそうです。 次に水、これはポットを何本も用意してもらい、冷めた順に飲んでいく事にしました。 冷蔵庫がないので冷たい水を飲むという願いは叶いませんでしたが、飲めないよりはいいでしょう。 イガイガパンと冷ました水、これがメインの食材となりました。 さて、北京入りして3日目になっても日本から連絡がありません。 この工場には直通電話がなく、全て取次ぎ制になっていました。 日本へ国際電話をかけることはできず、国際電話は日本から掛かってくるのを待つよりありませんでした。 初めて北京に行ったというのに、無事かどうかの電話連絡もしてこない会社というのはどうかと思います。 さすが年収シーマを貰えるだけある過酷な環境です。 誰も電話してきてくれないよーなんて甘えたことは言ってられません。 国慶節明けは新人さんも大量出勤!新しい出会いを求めて【Sugar Heel】へGO!

2006年10月08日

幽霊の正体

主食はトウモロコシパン、固いベットに金縛り。 年収シーマの仕事条件は過酷を極めていました。 これなら言葉が通じる分、刑務所の方が快適かもしれません。 初日の疲れのせいかと思った金縛りは毎夜続きます。 かなりな異常体験なのですが、毎晩だと慣れてきます。 最初はパニくってたのですが、3日もすると寝るときの合図みたいな感じになってました。 そんなリラックスが原因だったのか?ある日金縛りが解けました。 それも部屋に人の気配があるときにです。 金縛りにあっていつものように部屋の中に誰かがいるような気配を感じ、まったく動けない状態の中、その気配は寝ている僕の横まできて消えていきます。 この間、目も開けることもできずに固まっていたわけですが、ある日、目を開けることができました。 横まで来た気配を感じ頑張って目を開けてみると、なんとホントに人がいます。 夢か???と今まで以上のパニックになり、あまりの驚きに息が止まりそうになりました。 僕の顔を覗き込むようにしている人と目が合いました。 息を呑む瞬間、、、その人も驚いたようで部屋から出て行きました。 もう心臓バクバクです。 ホントに人がいた! これは僕にとって衝撃の事実でした。 人が寝ているところに入ってくる人がいる。 こんなことはキャンプでもあり得ません。 完全にプライバシーなどはないのでしょう、さすが社会主義の国です。 こんな僕にでさえも監視がついているのでしょうか?? 中国の怖さを思い知った夜だったのですが、あとから聞いた話では、この人は監視や偵察に来ていたのではなく、珍しい日本人を見に来ていただけだったそうです。 それが一人ではなく、何人も交代交代で見に来ていたというから驚きです。 寝ている部屋に人が交互に入ってきて寝顔を見られる環境、あなたは耐えられますか?? 日本人珍し−とかって言い訳にならないですよ。 きちんとお話をして、その後入室禁止にしてもらいました。 国慶節明けは新人さんも大量出勤!新しい出会いを求めて【Sugar Heel】へGO!

2006年10月25日

過酷な仕事

年収シーマの労働条件は過酷を極めました。 起床は早朝5時半、トウモロコシパンを食べて6時から仕事です。 午前中に6時間の作業をこなし、12時より14時まで休憩。 その後19時まで作業、1時間の休憩を挟んで20時から24時まで毎日残業です。 一日18時間拘束の15時間労働は、なかなかにグッタリする仕事です。 休みは一切なし!旧正月に2週間帰国できるだけです。 5月1日も10月1日も、土日も何もありません。 文字通り人の倍働くという環境でした。 当時の仕事場は、ガイドラインと呼べる物など一切なく、日本から届いた指示書を元に作業を進めるだけという内容でした。 工程分析をして、どう考えても設定納期通りにシップアウトさせることなど不可能と思えるような内容でも、どこからともなく人が集まってきて製品化が進んでいく様は圧巻でした。 スタッフ500名程度の工場だったのですが、納期ギリギリになると倍以上はいたと思います。 納期大丈夫?と聞いても"没問題!"これが当時の中国でした。 何を聞いても"没問題!"、今でこそできる事とできない事をきちんと教えてくれるようになりましたが、以前の中国は何でも来い来いでトンでもない製品を作っていました。 "没問題!"を信用して依頼して、作業過程は妥協の連続です。 できるって言ったじゃん!というのは後の祭りで、他の工場への振り替えなんかもできない状況にまであっという間に追い込まれてしまいます。 そんな現状脱却の為に送り込まれたのが年収シーマの男である僕だったのです。 やらなければならない仕事は山ほどあるのに、最初の難関として"言葉が通じない"。 モノを作るという仕事だったので、とにかく結果が勝負になります。 どんな言い訳をしようが、モノ作りを任されたらばきちんとした製品で応えなければなりません。 まず自分で日本の要求に応える製品を作って各工程の製造方法を実演して見せます。 日本の品質基準に通る見本作りからスタートなので、連日夜中まで翌日の生産に間に合わせるためにサンプルを作ってました。 今思うと、これをしていたので言葉が通じなくてもなんとかなったという気がします。 逆にこのせいで中国語を覚えなかったというのもありますが。。。 見本と色と数字、これだけ揃っていれば言葉が通じなくても何とかなるのが縫製の仕事だったりします。 そんな生活を丸々5年、万里の長城のふもとで過ごしたのでした。 先日からサラリーマンになって朝から働きに行っているわけですが、その会社の運営体制といったら。。。 19年前に僕が赴任した工場そのままの社風です。 やってもやらなくても給料が貰えるような雰囲気、定時になると作業そっちのけで帰宅してしまう仕事に対する意識。 社員全員、頭に霧が掛かったようにボーっと仕事をしています。 経営体質改善という大役を担ってサラリーマンになったわけですが、結果を出すには全員入れ替えた方が早そうです。

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